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【所長コラム】「0(ゼロ)グラム」へようこそ Act.17

テレビとパソコンは同義語になる

2009年03月25日 00時02分

「テレビの未来」セミナー
久夛良木健氏、麻倉怜士氏にご登壇いただいた、「テレビの未来」セミナー第三部。  photo:WIRED VISION

 3月19日、東京ミッドタウンのデザインハブで「テレビの未来」と題するセミナーを開催させてもらった。テレビをお題にセミナーをやる理由は前回も書いたが、20世紀最強のメディア「テレビ」が、いま大きく様変わりしそうだからだ。2011年7月24日には、アナログ波が停止する。YouTubeやニコニコ動画に加えて、NHKオンデマンドなどの映像配信も始まっている。なんとなく「ネットが絡んできそうだ」とは見当がつくのだが、あるべき未来のテレビが見えないと思う。

 「メディア」という言葉はもともと霊媒(medium)の複製形(media)に由来する。ちょうど、コンピュータのソフトウェアなどで使われる「バージョン」(version)が、聖書の「~版」の意味だったのに似て、宗教的な雰囲気を持った言葉なのだ。メディアの語源に関しては、たまたまセミナー第二部の京都大学大学院教育学研究科 佐藤卓己准教授のトークの中でも出てきた。こんなところで宗教的な言葉が使われるのは、メディア技術が、時空を超えた本来スーパーナチュラルなものだからだとも思える。

 グーテンベルグがブドウ絞り機から活版印刷機を発明したように、あるいは銀板写真がセルロイドフィルムが出てきて映画になったように、光電管やブラウン管が出来たおかげで実用的なテレビが作られた。メディアというのは、ひたすらテクノロジーによって成立・進化してきたものなのだ。しかも、人々の文化や社会や政治などの営みは行ったり来たりを繰り返しているのに対して、テクノロジーだけは進化しかしない。

テクノロジーの進化
これのタテ軸は何? ヨコ軸が時間ならなぜグラフがループしているんですか? などと指摘されそうだが、2つの事柄の性質の違いに注目してほしい。テクノロジーだけは進化しかしないとは、すでに指摘されていることではあると思いますが。

 だから未来のテレビがどうなるかを問うときに、もっぱらテクノロジーの視点から見てみるのは価値がありそうだ。そこで、セミナー第三部では、オーディオビジュアル評論家で津田塾大学講師の麻倉怜士氏と、プレイステーションの生みの親ことソニー・コンピュータエンタテインメント名誉会長の久夛良木健氏に語っていただいた。

 詳しいトーク内容については、ワイアードビジョンや本サイトからも読めるようになるはずだが、司会を担当した私自身とても刺激されるお話だった。久夛良木氏がテレビをどう見ているかは誰もが気になるところだが、同氏のビジョンをわたしなりに解釈すると、次のようになる。

久夛良木氏のビジョン!?
必ずしもすべて久夛良木氏のコトバではないので注意。

 最後の「グーグルが文字でやったのと同じこと」というのは、気になる人も多いだろう。私も、「それは動画検索のことですか?」と質問したのだが、どうやら「世界中のすべての情報をインデックス化してアクセス可能にする」というグーグルの基本理念に近いところのようだ。

 「あらゆる画面がテレビになる」も、私のようなパソコンが本業の人間には聞き捨てならないフレーズである。そこで、久夛良木氏に「パソコンとテレビは同義語になるのか?」と問い返したところ、なにをかいわんやともとれる切り返しだった。たしかに、すでにわたしたちはパソコンの画面でテレビを見ている。最強の映像機械を王位継承的に“テレビ”と呼んでいくというような話だとすると、逆に「未来のパソコンはテレビだ」とも思えてくる。

 映像はいままで、記録した後は途中での編集や加工はあっても、リアルタイムで自在にやれることは限られていた。ところが、最近では顔認識や自由視点テレビ※1、映像の自動生成やオーギュメント・リアリティ(拡張現実)など、映像まわりのテクロジーがにぎやかだ。そして、テクノロジーはテクノロジーと協調して加速される。Pixivにアップする1枚絵のような感覚で、いずれは誰もがゼロから動画をホイホイ作れるようになる。映像を、いまの文字情報のように扱えるコミュニケーションが可能になったら、たしかにパソコンをテレビと呼んでしまいそうだ。

 ひさしぶりに、「未来のパソコン」の話に関係するお話ができた気がして(そう感じていたのはわたしだけかもしれないが)楽しかった。テレビのお話としても、「テレビ局がどう生き残るか」とか「大手電機メーカーの決算がどうである」とか「広告費の落ち込みがどうである」とか、そういうところからは見えない、ピュアな未来が垣間見られたのではなかろうか? そして、テレビというのは人の情緒性や記憶や感性にかかわる、「海馬のための機械」ともいうべき大変な機械なのだということも再確認できた。

 麻倉怜士氏のトークでは、スーパーハイビジョンや超高音質の世界が生理的にどんな影響を与えるのか、身体論的機械としてのテレビがどこまで進化するのかという議論が面白かった。テレビはネットに行くとしても、生身の人間とテレビ受像器の間で、テレビ体験というものは起こるからだ。テレビでハイビジョンで見ている番組を、お金を払えばスーパーハイビジョンで見れるというような、具体的なサービスのイメージのお話もあった。

 ネットが映像であふれた時代には、自分の感動できる映像をどう探し出してくるかが重要になる。麻倉氏は、どこの他人か分からないレコメンド情報や協調フィルタリングなんかより、自分の分身(エージェント)がネット上に何匹もいるのが理想だという。だとしたら、それは評価関数を持ったプログラムというよりも、自分に代わって感動してみた結果を報告するというのはどうだろう。一緒にテレビを見る彼女のエージェントと交配してやれば、2人で楽しめる映像を探し出せるかもしれない。「感動チューリングテスト」※2のような話も出てくるくらい、そのエージェントと麻倉さんの見分けが付かなくなるような世界が来たら楽しそうだ。

    ※1 自由視点テレビ
    複数のカメラで撮影して空間内のどの位置から見た映像でもリアルタイムに生成できる映像システム。
    ※2 チューリングテスト
    英国の数学者アラン・チューリングが考案した人工知能を評価するための仮想実験で、壁越しにタイプライタで会話することによって行われる。

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■このコラムについて

 アスキー総合研究所所長の遠藤 諭が、コンテンツ消費とデジタルについてお届けします。

 本やディスクなど、中身とパッケージが不可分の時代と異なり、ネット時代にはコンテンツは物理的な重さを持たない「0(ゼロ)グラム」なのです。

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